手書き文字認識エンジンを積んだPTC-500が発売された1990年、茶谷公之(ちゃたに まさゆき)さんはアメリカに渡ります。ペンコンピュータの実績が呼び込んだ留学、ピクサーの映像との出会い、社内ゴルフ大会の偶然、そして「プレイステーションの父」久夛良木健さんとの面接。第2回は、留学から、社員100名強のソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)に加わり、40歳でCTOに就任するまでの話です。
- 第1回:元PlayStation CTOのキャリアは、わずか8MHzで動作するコンピュータ用「手書き文字認識」開発から始まった
- 第2回:「借金しても遊ばなきゃいかん」新卒ソニー→米国留学→PlayStation立ち上げ→40歳でCTO(この記事)
- 第3回:元PlayStation CTOが歩んだキャリア。ソニー→楽天→その先は?
- 第4回:自動車の次はロボティクス×AI。シニア社会という日本の勝ち筋
- 第5回:AIが“分かる”と“使える”をやる時代、人に残るの“創る”こと。元PlayStation CTOから次世代へ贈る言葉
「借金しても遊ばなきゃいかん」ワシントンでの1年間
──PTC-500が発売された1990年、茶谷さんはアメリカに留学します。どういう経緯だったんですか?
茶谷公之 ソニーからの留学生は、コンピュータサイエンスの王道の領域に行く人が多かったんだけど、僕はペンコンピュータの文字認識をやっていたから、ユーザーインターフェースの領域で留学しようと。そうしたら、コンピュータグラフィックスの有名な教科書を書いたジェームス・D・フォーリー先生が、PalmTopの開発に関わったことに興味を持ってくださって、ジョージワシントン大学の研究チームに参加させてもらえることになった。研究生なのに個室のオフィスをもらってね。部屋からワシントン・モニュメントが見えました。
──手書き文字認識の実績が、留学の扉を開けたんですね。どんな1年だったんですか?
いろんな街に行ったね。ちょうどのちにAIBOを創った当時ソニーの最年少取締役だった土井利忠さんが出張でアメリカに来られて、近くにいるからカバン持ちに来いって言われて。行ったら、「せっかく留学してるんだから、借金しても遊ばなきゃいかん」って言われたの。だから2か月に1回は学会でいろんな街に行かせてもらって、間の月はどこか旅行してた。フィラデルフィアに行ったのは、ちょうどサンクスギビングの日でね。レストランがどこも空いてなかった。
──本当にどこも閉まるんですね。この「借金しても遊べ」は……。
後に留学する人たちに、僕も必ず伝えるようにしてます。
──留学で、一番印象深かったことはなんですか?
SIGGRAPHっていうコンピュータグラフィックスの学会に2回参加したんだけど、のちにアニメ映画で有名になるピクサーが発表するショートムービーに釘付けになった。コンピュータグラフィックスの大きな可能性を感じて、日本に帰ったんです。
ゴルフ場の偶然と、久夛良木健のビジョン
帰国した茶谷さんは、Apple出身のエンジニアたちがシリコンバレーに設立したスタートアップ・General Magic社との協業に、ソニー側から関わります。転機は、ソニーのコンピュータ部門の懇親ゴルフ大会でした。著書『プレイステーションの舞台裏: 元CTOが語る創造の16年』(オフィスちゃたにパブリッシング)によれば、プレイステーションの事業準備室に異動していた友人が、ある面接をアレンジしてくれます。
茶谷公之 1993年11月、SCEが創業した直後にね。「プレイステーションの父」の久夛良木健さんと、のちにソニーの副社長になられる徳中暉久さんの面接を受けることになった。約束は夜7時ぐらいだったんだけど、お二人がいらしたのは1時間半後くらい。面談というより、一方的に久夛良木さんのビジョンと展望を聞いて、圧倒された記憶しかない。
──それで、どうなったんですか?
当時のソニーには、コンピュータグラフィックスを深く知っている人が多くなかったんですよ。ちょうど米国の大学でCGとユーザーインターフェースを勉強してきたことに興味を持ってもらえて、プレイステーションを立ち上げる組織に入れてもらうことになった。1994年5月にSCEに異動して、僕の社員番号は116番。まだ100名強の会社でした。
──初代プレステの発売の、半年ほど前のお話ですね。
編集注
開発部はソニーから、ゲーム制作や人事はソニー・ミュージックエンタテインメントからの出向者が中心。『プレイステーションの舞台裏』には「ソニー・ミュージック出身者が多いフロアはいつも音楽が流れていた」と、エレクトロニクスの会社とはまるで違う空気のなかで独自の文化が生まれていった様子が記されています。1994年12月に発売された初代プレイステーションは発売から7年で売上1兆円を超え、2019年には据え置き型ゲーム機として初めて累計5億台のギネス世界記録を達成しました(同書序文より)。
ナノの半導体から、地球規模のネットワークまで

<米国SCEA時代のオフィシャルポートレート(本人提供)>
──その後、アメリカ赴任を経て2003年に帰国し、40歳でSCEのCTOに就任します。PlayStationのCTOって、どんな仕事なんですか?
茶谷公之 技術的に言うと、CPUやGPUっていう半導体のレイヤーが土台にあって、システムのアーキテクチャーがあって、OSがあって、その上にソフトウェアのレイヤーがあるじゃないですか。本体に入っているブラウザーやプレイヤーみたいな組み込みアプリケーションがあって、あとはネットワーク。IDやアカウントを管理して、ゲームをダウンロードできる仕組みね。だからCTOは、ナノスケールの半導体から、地球規模のネットワークサービスまでをカバーすることになる。大きさのダイナミックレンジで言うと、10の12乗とか13乗も違う話を全部扱う。開発戦略の議論を1日やると、頭が疲れてぐったりするんですよ。

<技術レイヤーの図解 ※編集部作成>
──8MHzのマシンと格闘していた新人が、ナノからグローバルまで見る側になったんですね。そのときのチームはどのくらいの規模だったんですか?
日米欧韓で数百人。だんだん、直接話したことのない人が増えてきたんでね、全員と面談することにした。1人30分で、聞くことは3つ。これまでやってきたこと、いまやっていること、将来やりたいこと。

<SCEA Developer Conferenceでのキーノート(本人提供)>
──数百人、全員ですか!
1日に最大3人までにして、1周するのに1年半から2年ぐらいかかったかな。CTOを退任するまでに2周はできたと思う。特に「やりたいけど、まだできていないこと」は、しっかり覚えるようにした。新しい開発テーマが生まれたとき、それをやりたいと思っている人を覚えておくのがとても重要だから。この面談がきっかけで、のちに100万本のヒットになるアプリケーションの開発に加わってもらった人もいます。

<CTOとして2005年のE3で発表(本人提供)>
──第1回は4人のチームで手書き文字を開発していた話でした。その人が、数百人の「やりたいこと」を覚える側になったんですね。
取材・文:RUNA NAITO / 取材日:2026年7月31日

